時事随想

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時事随想

ニュースや新聞を見て、想ったことを綴った随想・論説集

韓国による竹島占拠までの年表

 韓国による竹島占拠までの年表を作成しました。韓国の実効支配は、韓国警備員の常駐と1954年11月21日の海上保安庁巡視船「へくら」への砲撃、及び、それに対して日本側が対抗措置を行わないことで、ほぼ確立しました。この記事では、日本側の資料を中心に、1952年5月28日の韓国漁民の発見から1954年11月21日の巡視船「へくら」砲撃までの間のイベントを時系列でまとめました。

1. 参照資料

1.1 採用した資料

 入手した資料のうち、次の資料を採用して、年表を作成しました。

1.2 採用しなかった資料

独島義勇守備隊に関する資料

 一部の資料では、竹島占拠においては、独島義勇守備隊が活躍したとされます。しかし、日本側の資料との齟齬が多く、独島義勇守備隊が活躍したとの記述については信憑性が低いと判断しました。また、韓国メディアトゥデイ(資料11)も、独島義勇守備隊の活躍については疑問視しています。

 独島義勇守備隊の活躍に関する資料には、以下のものがあります(他にも多数あります)。

 これらの資料については、年表作成に当たって採用しませんでした。各資料の信憑性に関する検証は付録で述べます。

2. 竹島の占拠までの年表

 1952年1月18日の李承晩ラインの設定から、1954年11月21日の巡視船「へくら」への砲撃までを時系列でまとめています。主に、資料1(外交防衛調査室の論文)と資料2(海上保安庁の竹島巡視記録)をベースに他の資料の情報を追記しています。

日付イベント
1952/1/18 - 李承晩大統領による「海洋主権宣言」(「李承晩ライン」の設定)
1952/4/28 - サンフランシスコ平和条約が発効。
1952/7/26 - 日米合同委員会で在日米軍の爆撃訓練区域に指定。
1953/1/12 韓国政府 李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。
1953/2/4 - 第一大邦丸事件が発生。韓国海軍によって、福岡の漁船「第一大邦丸」「第二大邦丸」が銃撃・拿捕され、その際に船員1名が死亡。
1953/3/19 - 日米合同委員会で在日米軍の爆撃訓練区域からの解除。
1953/5/28 島根丸 韓国漁民の操業活動をはじめて発見。島根県水産試験船「島根丸」が、竹島沖3海里において韓国旗を掲げた動力船6隻、伝馬船6隻にて海藻や貝殻の採取を確認。漁民は約30名(あるいは約60名)。「船を近づけて来た韓国漁民と交歓」(資料6)
1953/6/15-16島根丸 竹島に韓国人を確認。(資料3)
1953/6/17 海保本部 「竹島周辺海域の密航密漁取締りの強化」を決定。
1953/6/22 日本政府 日本が韓国代理部に対して、韓国漁民の不法上陸・不法操業等を抗議。
1953/6/25 鵬丸 毎日新聞記者、隠岐高校水産科の練習船「鵬丸」で竹島上陸。毎日新聞記事「問題の竹島現地レポ-まだいた韓国漁夫-アシカ料理で歓待>」(資料6)
1953/6/26 美保丸 (朝日新聞記者)漁船「美穂丸」にて、竹島上陸。6月28日の朝日新聞島根版「“日本に行きたい”‐広谷氏語る‐竹島の韓国人哀願」は「竹島のアシカ狩りに8年間の経験を持つ西郷町の漁業者広谷元次郎氏(64)が急に竹島が恋しくなり、25日夜所有する「美保丸」(15トン)に船員4人と乗り組み、26日昼頃竹島に到着した。丁度昼食時分で、島にいた韓国人達がアシカ料理や魚介類を食っていた。「鬱陵島と連絡がとれぬので米がない。」とこぼしていたので米6升を置いてきた。帰ろうとすると船に24、5才と34、5才の男が乗り込んできて「どうか日本へ連れて行ってくれ」と泣かんばかりに頼んできたため、隠岐に帰って相談してみるとし、26日午後2時頃竹島を離れた」という主旨の記事。(資料6)
1953/6/26韓国政府 韓国が「竹島は韓国領土の一部である」旨の回答(6/22の日本の抗議に対する回答)。
1953/6/27 海保上陸 海保「おき」「くずりゅう」にて、島根県職員2名、島根県警察官3名、海上保安官25名が竹島に上陸。竹島で6名の韓国漁民を発見。標柱を設置(以下、「設標」)。このときの標柱は「島根県穏地郡五箇村」「不法漁業を禁止」の二つ。(資料1)
 漁民は鬱陵島在住で6月9日に来島して海草を採取していたが、時化で母船が来ないため食料が無くなって困っていた。鬱陵島に送ってほしいと希望したが、母船が到着し次第、退去するように勧告。(資料5)
1953/7/1-2 海保上陸 海保「ながら」。竹島及び周辺に人、船舶がいないことを確認
1953/7/2 韓国政府 韓国外務部スポークスマン、日本側が竹島で韓国の漁船及び漁民を捕えたのでこれを保護するため韓国海軍船艇を竹島に派遣すると発表した。(資料6)
1953/7/8 韓国国会 6/27の海保上陸について日本政府に厳重抗議することを求める建議文を採択。主権侵害を防止するための「積極的な措置」をとることを求める。(資料5)
1953/7/9 海保100m 海保「おき」。竹島及び周辺に人、船舶がいないことを確認
1953/7/12 海保700m 海保「へくら」、日本側の標柱撤去を確認。韓国漁民、漁船が多数来島しているのを確認。韓国動力船3隻、伝馬船1隻、韓国人約40名(内、警察官7名)。警察官は自動小銃2丁の他、拳銃を携行。韓国警官が巡視船「へくら」に来船し、退去を要請。「へくら」離島時に数十発の銃撃を受け、うち2発が命中(資料2,6)
朝日新聞全国版「韓国側から発砲‐竹島で保安庁巡視船撃つ」(1953/7/14):前日の朝巡視船「へくら」が竹島付近をパトロール中、韓国漁船3隻が自動小銃を持った韓国警官7、8人に囲まれて漁業活動をしているのを発見した。巡視船はボートを下ろし、島に上陸しようとしたところ韓国警官2人が通訳を連れて漕ぎ寄せ「ここは韓国の領域だから引揚げろ」と要求した。日本側のボートは巡視船に引揚げ、船に乗り移った途端、韓国警官はいきなり数十発を発砲、うち2発が「へくら」に命中したが人に被害はなかった。(資料6)
朝日グラフ「日韓の係争地『竹島』」(1953/9/16日刊):韓国船が護衛されながら漁をしている海域で「へくら」が停船すると3人の韓国人が小舟で近づき「へくら」に乗り込んで来て、「へくら」の責任者柏博次境海上保安部副部長と会話した。それぞれが竹島は自国の島と応酬した後韓国人3人は自分達の舟に帰り、「へくら」も動き出そうとした時、銃声が聞こえ2発が「へくら」に命中したとしている。(資料6)
1953/7/13 日本政府 在日韓国代表部に銃撃について抗議。(資料6)
1953/8/3 海保上陸 海保「へくら」、竹島及び周辺に人、船舶がいないことを確認。
1953/8/4 韓国政府 日本側による「韓国領土 竹島」への不法侵入(6/23,6/27,7/9,7/12)について抗議。日本側は8/8にこれに反論する口上書を在日韓国代表部に送付。(資料6)
1953/8/7 海保上陸 海保「へくら」、竹島及び周辺に人、船舶がいないことを確認。設標。
1953/8/21 海保上陸 海保「ながら」竹島及び周辺に人、船舶がいないことを確認。
1953/8/31 海保3海里 海保「へくら」
1953/9/3 海保1海里 海保「おき」
1953/9/17 島根丸 竹島へ上陸。韓国漁民おらず、アシカと戯れる。(資料6)
1953/10/6 海保上陸 海保「へくら」「ながら」、竹島及び周辺に人、船舶がいないことを確認。日本側の標柱撤去を確認。「島根県穏地郡五箇村」の標柱を東島・西島に設置
1953/10/13海保3海里 海保「へくら」
1953/10/15韓国 韓国山嶽会が標石を設置。日本の標柱を撤去。(資料10)
1953/10/17海保300m 海保「ながら」。日本側の標柱撤去を確認。東島に旗竿2本、西島付近の小島に測量竿を確認。
1953/10/21島根丸 竹島へ上陸。韓国漁民と交流。(資料6)
1953/10/23海保上陸 海保「ながら」「のしろ」。設標。韓国側の標石、旗竿を撤去。
1953/11/15海保200m 海保「ながら」
1953/12/6 海保5海里 海保「へくら」
1953/12/19海保3海里 海保「へくら」
1954/1/7 海保200m 海保「ながら」
1954/1/16 海保上陸 海保「おき」、竹島及び周辺に人、船舶がいないことを確認。
1954/1/27 海保200m 海保「へくら」「ながら」
1954/2/28 海保3海里 海保「へくら」
1954/3/23 島根丸 竹島へ上陸。韓国漁民と交流。(資料6)
1954/3/28 海保3海里 海保「へくら」
1954/4/24 海保3海里 海保「へくら」
1954/5/3 海保上陸 海保「つがる」「おき」「へくら」「ながら」「くずりゅう」、日本漁船わかめ漁実施。日本側の標柱を確認
1954/5/3 韓国政府 「ペク総理は鬱陵島島民の独島自衛隊を積極的に後援するように指示」「韓国の領土である独島の主権を確保するために鬱陵島道民が決起大会を開いて独島自衛隊を組織することにした、その決議が立派なことであり意味深いものと指摘して、積極的に協力するように要望」(朝鮮日報,1954/5/6付)(資料11)
1954/5/23 海保1km 海保「つがる」、日本側の標柱撤去を確認。韓国の動力船3隻・伝馬船4隻、30名以上の漁民が操業中であることを確認。
1954/5/29 - 韓国の動力船1隻・伝馬船3隻、50名程度の漁民が操業中であることを確認。
1954/6/16 海保1km 海保「つがる」、韓国の動力船2隻・伝馬船2隻、25名程度の漁民が操業中であることを確認。
1954/6/17 - 韓国内務部が沿岸警備隊の駐留部隊を派遣したと発表(ソウル発UP電)
1954/7/8 海保3海里 海保「へくら」、動力船1隻・伝馬船1隻停留を確認。
1954/7/28 海保ボートで至近 海保「くずりゅう」。伝馬船1隻。西島に天幕を張り、韓国警備員6名が作業中を確認。西島北側の岩に「7月25日大韓民国民~号警備隊」の文字あり。
1954/8/23 海保700m 巡視船「おき」を銃撃。発射段数約400発。うち1弾被弾。東島突端に高さ約6mの灯台設置。韓国旗掲揚中。
1954/8/26 - 日本が韓国側の発砲による被弾について抗議
1954/8/30 - 韓国が日本の巡視船の接近に対して抗議
1954/9/25 - 日本が韓国に対し、国際司法裁判所付託を提議。
1954/10/2 海保1.5海里海保「おき」「ながら」、東島頂上に高さ約10mの無線柱2本新設を確認。東島の突端に大砲設置。警備員7名おり、砲口を巡視船に向ける。
1954/10/28- 韓国が国際司法裁判所付託を拒否
1954/11/20- 日本側が島上東方に砲らしきものが据えられてあるのを確認。
1954/11/21海保3海里 海保「へくら」「おき」山小屋風の建物2棟を確認。巡視船「へくら」より約1海里に砲弾5発落下。無線柱付近に14~15名の警備員。韓国国旗の掲揚を確認。

3. 韓国の竹島占拠までの流れ

 年表に示すように、おおよそ以下のような流れで韓国に竹島を占拠されます。

  • 島根県水産試験場の「島根丸」が海洋資源調査に際し、1953年5月28日に竹島の漁民を見つけました。その後、定期的に海上保安庁の巡視船が竹島を監視していましたが、常時監視というわけではなく、数日おき、数週間おきの監視でした。
  • 韓国は、巡視船の巡回や漁民の退去勧告などに対抗するため、武装した警察官を竹島に派遣、1953年7月12日の海保巡視船「へくら」への銃撃となりました。
  • 但し、1953年の間は、日本も韓国も、竹島に常駐しているわけではないので、標柱の設置や撤去を繰り返していたというような状況でした。そんな中でも、島根県水産試験場の「島根丸」は、韓国漁民と交流しているので(1953/10/21,1954/3/23)、高い緊張状態にあったというわけではないようです。
  • 対立がエスカレートしたのは、1954年5月3日にペク総理による独島主権確保の号令をかけたころからでしょうか。海保は1954年5月3日を最後に、竹島上陸の記録がありません。
  • 6月には韓国沿岸警備隊の駐留部隊を派遣(1954年6月17日)、常駐のための施設の設営を開始しました。
  • 1954年8月23日迄には高さ6mの灯台の設置完了、1954年10月2日迄には無線柱2本と大砲の設置を完了しました。
  • そして、1954年11月21日の巡視船「へくら」への砲撃となりました。

 韓国の実効支配に対して、日本は強硬手段は取っていません。外交的手段による解決を重視していたようです。当時は、正規の軍隊組織を持っておらず、憲法9条の制約もあったためでしょう。国会における議論の概要が資料1に記載されています。

 韓国の強硬的な手段に対し、7月 15 日(筆者注:1953年7月15日)の参議院本会議では「竹島周辺における韓国漁船発砲事件並びに竹島の帰属に関する緊急質問」が行われるなど、国会ではその対応について激しい議論が交わされた。(中略) 韓国に対抗し、日本も強硬な姿勢を取るべきだとの議論もされたが、政府は、「竹島に韓国人が来ることは、日本領土に対する不法入国の問題であり、不法入国の取締りの警察権を発動して一向かまわない。…ただ、日本として慎まなければならないことは、領土権の紛争、領土権問題という国際問題を解決するために武力を行使するということは、憲法9条で、国際紛争の解決のために武力を行使しないということが規定されている」と答えている。
出典: 外交防衛委員会調査室, 「竹島問題の発端 ~韓国による竹島占拠の開始時における国会議論を中心に振り返る~」

 韓国が実際に拠点の設営を開始したのは、1954年6月頃からで、この議論が行われた1953年の時点では、特に拠点の設営は行っていませんでした。日本政府は外交的に解決するということを基本としていたのですが、1953年の時点で日本が常駐できるように施設を作り、常駐していれば、日本が竹島を実効支配できたと思います。

4. 最後に

 本記事では、韓国による竹島実効支配までの主なイベントを年表としてまとめました。

 韓国による竹島占拠までの流れは、現在の中国による尖閣進出への流れと共通点を感じます。当時も今も外交的努力を重ねるということを主眼としてますが、これには実質的な効果は期待できないでしょう。また、当時との大きな違いは、日本が軍隊(自衛隊)を持ち、尖閣諸島が占拠されれば自衛権を発動できるという点です。

 そもそも占拠されないように、尖閣諸島に少なくとも小火器あるいは重火器を使える組織を常駐させることが必要に思います。

付録1. 独島義勇守備隊の活躍に関する考察

 独島義勇守備隊に関する情報は検索すると多数見つけることができますが、懐疑的意見も多く、例えば、韓国メディアトゥデイ(資料11)や以下の資料でも、独島義勇守備隊の活躍を疑問視しています。

 ここでは、独島義勇守備隊の活躍について記述した以下の資料について、日本側の資料と比較することで、資料の信憑性について検証したいと思います。

  • 資料12:中央日報「常習的に侵犯する日本人を決死阻止した独島義勇守備隊」(2012/8/19)
  • 資料13:ウィキペディア「独島義勇守備隊」
  • 資料8:ウィキペディア「竹島 (島根県)」(独島義勇守備隊に関する記述)

付録1.1 資料12(中央日報)

 この記事は、主に、独島義勇守備隊の隊長ホン・スンチルの自伝「この地がどこの地なのか」を引用していると思われます。

 1954年11月21日明け方、日本の海上保安庁の艦艇3隻が独島(トクト、日本名・竹島)に接近した。1000トン級PS-9、PS-10、PS-16艦は、左右と中央から島を包囲した。日本の航空機も旋回した。600メートル前。拳銃の音とともに一斉射撃が始まった。M-1小銃が火を吹いた。迫撃砲弾はPS-9艦の甲板に当たった。PS-10艦も暗雲のような煙を吐き東に逃げた。(ホン・スンチル『この地がどこの地なのか』)  
 53~54年に入り独島を侵した日本は痛手を負った。死者数は16人。
 
恐れを知らずに銃と大砲を海上保安庁の艦艇に撃ちまくった彼らは独島義勇守備隊だった。日本人の山座円次郞が独島を飲み込もうとする陰湿で凶悪な計略を出して50年余り、体で独島を死守した彼らが義勇守備隊だ。

 日本側の記録(資料2)では、1954年11月21日に海上保安庁巡視船「へくら」「おき」の3海里(約5.5km)にいたところ、「へくら」から約1海里(約1.8km)の地点に砲弾5発が落下したということです。従って、迫撃砲弾が当たり、煙を吐き逃げたということはありません。また、1953年5月28日から1954年11月21日までの死傷者が発生したという記録はありません。

義勇守備隊は6月24日に日本の水産高校の実習船を西島の150メートル前で捕まえ、「独島は韓国領」であることを周知させ解放した。

 1953年6月25日に毎日新聞記者から依頼され、隠岐高校水産科の練習船「鵬丸」が竹島に渡航しています。6月27日付の毎日新聞島根版「問題の竹島現地レポ-まだいた韓国漁夫-アシカの料理で歓待」の記事があり(資料6)、拿捕・解放ということではなかったようです。

 7月12日午前5時、日本のPS-9の侵犯時は真価を発揮した。艦艇の90メートル前から軽機関銃で200発を打ち込んだ。

 1953年7月12日の発砲事件については、以下の日本側の記録があります。

  • 海保「へくら」、日本側の標柱撤去を確認。韓国漁民、漁船が多数来島しているのを確認。韓国動力船3隻、韓国人約40名(内、警察官7名)。韓国警官が巡視船「へくら」に来船し、退去を要請。「へくら」離島時に数十発の銃撃を受ける。(資料2,6)
     
  • 朝日新聞全国版「韓国側から発砲-竹島で保安庁巡視船を撃つ」(1953/7/14):前日の朝巡視船「へくら」が竹島付近をパトロール中、韓国漁船3隻が自動小銃を持った韓国警官7、8人に囲まれて漁業活動をしているのを発見した。巡視船はボートを下ろし、島に上陸しようとしたところ韓国警官2人が通訳を連れて漕ぎ寄せ「ここは韓国の領域だから引揚げろ」と要求した。日本側のボートは巡視船に引揚げ、船に乗り移った途端、韓国警官はいきなり数十発を発砲、うち2発が「へくら」に命中したが人に被害はなかった。(資料6)
     
  • 朝日グラフ「日韓の係争地『竹島』」(1953/9/16日刊):韓国船が護衛されながら漁をしている海域で「へくら」が停船すると3人の韓国人が小舟で近づき「へくら」に乗り込んで来て、「へくら」の責任者柏博次境海上保安部副部長と会話した。それぞれが竹島は自国の島と応酬した後韓国人3人は自分達の舟に帰り、「へくら」も動き出そうとした時、銃声が聞こえ2発が「へくら」に命中したとしている。(資料6)

 日本側資料にある「韓国警官」が、独島義勇守備隊かは判然としません。

 基本的に中央日報の記事は、もともとの自伝を鵜呑みにし、独島義勇守備隊を英雄視する論調で記事が書かれており、信憑性は低いと考えられます。

付録1.2 資料13(ウィキペディア「独島義勇守備隊」)

 独島義勇守備隊は1953年4月20日、初めて竹島に駐在した。常駐ではなく、定期的な駐在である。同年6月27日、日本の巡視船2隻が来島して6人いた守備隊員を島から追い出し、日本領の標識を立てている。

 資料2によれば、1953年6月27日に日本の巡視船2隻「おき」「くずりゅう」が、韓国人6名の退去を勧告し、標柱を設置しています。資料7によれば、6名はワカメを採取する韓国人で、「島根県の報告書に残る彼らの名簿に独島義勇守備隊員の名前はない」とのこと。

 1954年4月21日日本の巡視船が来島したため交戦状態が発生し、巡視船1隻を撃沈したと主張しており、日本側の記録でも巡視船が発砲を受けて損害を蒙ったことは確認できるが、撃沈は確認できない。また日本側は発砲した組織を韓国「官憲」と認識していた。隊員が何らかの制服を着用していたためだろう。また守備隊はその後も日本巡視船との交戦があったと主張し、日本側記録でも1954年11月30日に日本巡視船が竹島から砲撃を受けたとする。

 1954年4月21日、1954年11月30日の交戦については、日本側の記録を見つけられませんでした。

 また、参考文献として、資料12(中央日報)を挙げていますが、かなり参考にしていると思われます。

付録1.3 資料8(ウィキペディア「竹島 (島根県)」)

 同年4月20日(筆者注:1953年4月20日)には韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯。6月24日、日本の水産高校の船舶が独島義勇軍守備隊に拿捕される[27]。(中略) すると、7月12日に竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船「へくら」(PS-9[27]) に90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込む事件が起きる[27]。

 [27]の文献は、資料12(中央日報)で信憑性が低いです。

(2016/10/14)

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